親や配偶者が亡くなったあと、葬儀費用を故人の口座から払おうとしたら、窓口で断られた——。相続の場面でよく起きるつまずきです。金融機関は名義人の死亡を知ると、その口座の取引を止めます(いわゆる口座凍結)。かつては、遺産分割の話し合いがまとまるまで相続人がひとりで預金を引き出す方法はほぼありませんでしたが、いまは違います。2019年7月1日に施行された「遺産分割前の相続預金の払戻し制度」(民法909条の2)により、他の相続人の同意がなくても、相続人単独で一定額まで払戻しを受けられるようになりました。本記事では、法務省・全国銀行協会の一次情報にもとづいて、引き出せる金額の計算方法、必要書類、そして定期預金ならではの注意点を整理します(制度内容は2026年9月時点で確認)。
目次
口座が止まるのは「死亡届を出したとき」ではない
まず前提の整理です。市区町村役場に死亡届を出すと、その情報が金融機関へ自動的に連携されて口座が凍結される——と思われがちですが、そのような仕組みはありません。口座の取引が止まるのは、金融機関が名義人の死亡の事実を知ったときです。遺族からの連絡や相続手続きの申し出がきっかけになるのが一般的です。
凍結は嫌がらせではなく、相続人の一部による無断の引き出しや、二重払いのトラブルから遺産を守るための措置です。2016年12月の最高裁決定により、預貯金は遺産分割の対象になることが明確にされ、原則として相続人全員の同意がなければ払戻しできない、というのが金融実務の土台になっています。
遺産分割の前でも、相続人ひとりで払い戻せる制度がある
とはいえ、遺産分割の協議には数か月かかることも珍しくありません。その間にも葬儀費用・医療費の精算・当面の生活費といった支出は待ってくれません。そこで2018年7月の民法改正(相続法改正)で新設されたのが、遺産分割前の相続預金の払戻し制度です。
各相続人は、家庭裁判所の判断を経ずに、取引金融機関の窓口へ請求するだけで、相続預金のうち一定額を単独で払い戻せます。「他の相続人全員のハンコを揃えなくても、当面の資金を確保できる」——これがこの制度の核心です。ただし、遺言がある場合などは制度を利用できないことがあると全国銀行協会も案内しており、詳細は取引金融機関への確認が必要です。
引き出せる額は「残高の3分の1×法定相続分」——口座ごとに計算し、1銀行150万円まで
単独で払い戻せる金額は、次の式で計算します。
単独で払戻しできる額 = 相続開始時の預金残高(口座ごと)× 1/3 × 払戻しを求める相続人の法定相続分
ここに2つの重要な上限が重なります。1つは、計算が口座ごと(定期預金は明細ごと)に行われること。もう1つは、同一の金融機関からの払戻しは合計150万円が上限になることです(民法909条の2に規定する法務省令で定める額を定める省令〔平成30年法務省令第29号〕)。同じ銀行の複数の支店に口座があっても、全支店を合算して150万円までです。逆に、別の銀行であれば150万円の枠は銀行ごとに使えます。
具体例で見てみましょう。相続人が配偶者と子2人で、A銀行に普通預金600万円と満期到来済みの定期預金300万円があった場合の計算です。
| 払戻しを請求する相続人 | 普通預金600万円からの上限 | 定期預金300万円からの上限 | 合計(同一銀行150万円まで) |
|---|---|---|---|
| 配偶者(法定相続分1/2) | 600万円×1/3×1/2=100万円 | 300万円×1/3×1/2=50万円 | 150万円(ちょうど上限内) |
| 子1人(法定相続分1/4) | 600万円×1/3×1/4=50万円 | 300万円×1/3×1/4=25万円 | 75万円 |
「1金融機関あたり」で枠が決まるという発想は、預金保険制度(ペイオフ)の「1金融機関1,000万円+利息」と同じ構造です。まとまった資産を複数の銀行に分けて預けておくことは、万一の保護だけでなく、相続の場面でも家族が動きやすくなるという副次的な意味を持ちます。
定期預金は「明細ごと」に計算——ただし満期前の払戻しは認められないと解されている
定期預金金利比較の読者にとって、いちばん知っておきたいのはここです。払戻し可能額の計算対象には定期預金も含まれます(明細ごとに計算。三井住友銀行など各行の案内でも明示されています)。しかし、満期が到来していない定期預金については、この制度によっても満期前の払戻し(中途解約)までは認められないと解されています。定期預金の中途解約はもともと金融機関の承諾を前提とする手続きで、相続預金では相続人全員の同意を求められるのが実務だからです。
つまり実務上は、普通預金と満期到来済みの定期預金から払い戻すのが基本で、満期前の定期預金しかない場合は、この後で紹介する家庭裁判所の手続きや、相続人全員での中途解約を検討することになります。取扱いは金融機関によって異なるため、必ず窓口で確認してください。なお、中途解約になった場合に利息がどう減るかの仕組みは定期預金の中途解約利率の解説記事で詳しく説明しています。
窓口で必要になる書類——戸籍の収集から逆算して動く
全国銀行協会のリーフレットによると、制度の利用には本人確認書類に加えて、概ね次の書類が必要です(金融機関により異なる場合があります)。
- 亡くなった方の除籍謄本、戸籍謄本または全部事項証明書(出生から死亡までの連続したもの)
- 相続人全員の戸籍謄本または全部事項証明書
- 預金の払戻しを希望する方の印鑑証明書
ポイントは、「単独で」払い戻せる制度であっても、相続人全員分の戸籍は必要だということです。法定相続分を確定しないと払戻し可能額が計算できないためです。出生から死亡までの連続した戸籍は、本籍地を移している方の場合は複数の市区町村から取り寄せることになり、収集に数週間かかることもあります。書類を提出してから払戻しまでにも確認の時間を要するので、急ぎの支出があるなら、戸籍の収集から逆算して早めに動くことが実務上の鍵になります。
150万円で足りない場合は家庭裁判所へ——仮分割の仮処分
相続法改正では、窓口での払戻し制度とセットで、家庭裁判所を通じたもう1つの道も整備されました。預貯金債権の仮分割の仮処分(家事事件手続法200条3項)です。2つの制度の違いを並べます。
| 比較の観点 | 窓口での払戻し制度(民法909条の2) | 仮分割の仮処分(家事事件手続法200条3項) |
|---|---|---|
| 手続き先 | 取引金融機関の窓口 | 家庭裁判所 |
| 金額の上限 | 計算式による額・同一金融機関150万円まで | 一律の上限なし(家庭裁判所が認めた額) |
| 前提条件 | なし(必要書類が揃えば請求できる) | 遺産分割の審判・調停の申立てがあること/生活費の支弁等の必要性が認められ、他の相続人の利益を害しないこと |
| 向いている場面 | 葬儀費用・当面の生活費などの少額・急ぎの資金 | 相続債務の返済など150万円を超える資金が必要な場合 |
仮分割の仮処分は、遺産分割の調停・審判をすでに申し立てている(またはあわせて申し立てる)ことが前提で、書面の準備も窓口の払戻しより格段に重くなります。まず窓口の制度で足りるかを計算し、足りない場合の選択肢として位置づけるのが現実的です。
払い戻す前に確かめたい3つのこと
第一に、払い戻した分は「もらい得」にはなりません。この制度で払い戻した預金は、遺産の一部分割によって取得したものとみなされます(民法909条の2後段)。つまり、最終的な遺産分割ではその分がすでに受け取った財産として扱われ、取り分から差し引かれます。後のトラブルを避けるために、使いみちの領収書を保管し、他の相続人にも金額と目的を伝えておくことをおすすめします。
第二に、相続放棄を検討しているなら、払い戻したお金に手を付けないことです。相続財産を自分のために処分すると、相続を単純承認したものとみなされ(民法921条)、借金があっても放棄できなくなるおそれがあります。故人に債務がある可能性があるうちは、この制度の利用自体を慎重に判断し、弁護士・司法書士など専門家に相談してください。
第三に、そもそも「凍結」と「放置」は別問題です。相続手続きをしないまま口座を放置すると、最後の取引から10年で休眠預金として預金保険機構へ移管されます(権利は消えませんが、引き出しの手間が増えます)。詳しくは休眠預金等活用法の解説記事をご覧ください。元気なうちに口座と定期預金の満期の一覧を家族と共有しておくことが、結局いちばんの備えになります。
遺産分割前の払戻し制度Q&A
凍結される前にATMで引き出しておけば、面倒な手続きは不要では?
おすすめできません。死亡後にキャッシュカードで引き出す行為は、後から他の相続人との間で使途をめぐる深刻なトラブルになりやすく、使い方によっては単純承認とみなされて相続放棄ができなくなるおそれもあります。急ぎの資金が必要なら、記録が残る正規の払戻し制度を使うほうが安全です。
満期前の定期預金しかない場合、打つ手はありませんか?
選択肢は残っています。相続人全員が同意すれば中途解約による払戻しを相談できますし、事情によっては家庭裁判所の仮分割の仮処分を検討する道もあります。満期日が近いなら、満期を待ってから制度を使うのも一案です。いずれの取扱いになるかは金融機関へ確認してください。
ゆうちょ銀行や信用金庫の預金でも同じように払い戻せますか?
対象になります。この制度は遺産に属する預貯金債権を広く対象としており、銀行だけでなくゆうちょ銀行・信用金庫などの預貯金も同様です。150万円の上限は金融機関ごとに適用されます。必要書類や手続きの細部は各機関で異なるため、それぞれの窓口で確認してください。
払い戻したお金の使いみちに制限はありますか?
法律上の使途制限はありません。葬儀費用・生活費・医療費の精算など、何に充ててもかまいません。ただし前述のとおり最終的な取り分から差し引かれるため、使途の記録を残しておくことが後々の話し合いを円滑にします。
まとめ——この制度は「つなぎ資金」、本番は遺産分割の手続き
遺産分割前の払戻し制度は、口座凍結で立ち往生しないためのつなぎ資金の確保手段です。「残高の3分の1×法定相続分・1金融機関150万円まで」という枠を知っていれば、葬儀費用や当面の生活費の多くはカバーできます。一方で、満期前の定期預金は対象にならないと解されている点、払い戻した分は最終的な取り分から差し引かれる点、相続放棄との関係など、使う前に確かめるべきことも少なくありません。制度の詳細と最新の取扱いは、法務省・全国銀行協会の案内および各金融機関の窓口でご確認ください。